令和4年1月22日、慈母観音潮音寺の創建願主である橋本登美三郎大居士の三十三回忌法要が、同寺本堂でしめやかに執り行われました。
私は、村上定運住職が読経をしている間、政治の師匠と仰いでいた橋本先生がお元気でご活躍されていた時代を思い浮かべ、慈母観音創建の意味が今こそ問われていることを悟らされました。
橋本先生は、終戦直後の1949年の衆議院選挙で初当選され、以来12期31年間の政治活動の中で内閣官房長官、建設大臣、運輸大臣、そして自由民主党幹事長などの要職を歴任されました。文字通り、敗戦後の日本の発展基盤の形成と高度成長を成し遂げた功績は誰もが認めるところであります。
とくに、茨城県においては、常磐自動車道、東関東自動車道、北関東自動車道の建設計画と、鹿島港、鹿島工業地帯の誘致など、今日の発展の土台を築かれた中心的人物であります。
私は、1983年に橋本先生の後継者として国会に送っていただいた時に、橋本先生から「東関道を北関東に結びつけること、さらに鹿島、神栖に延伸することが君の責任だよ」と言われたことが、これまでずっと重い課題として私の両肩にのしかかっていました。
私は、今般の三十三回忌の法要の席で、「先生、東関道は令和8年までにやっと北関東道とつながり、神栖への延伸も具体的に路線を決定し、工事着工に入ることが決まりました」と報告でき正直いってほっとしています。これによって、鹿行地域は、成田空港、茨城空港、そして太平洋岸に立地している鹿島港、大洗港、常陸那珂港などが高速道路で結ばれることになり、新たな発展の基盤が作られることになります。
一方、慈母観音潮音寺に関しては、橋本先生は日ごろから私どもに「物で栄えて心で滅ぶ世の中であってはならない。政治や教育、あるいは社会の中にあってもその根底に愛の精神が欠けていては何をしても空しさが残る」と心を失った現代の世相に警鐘を鳴らしておられました。
その上で、橋本先生は「荒ぶる世を鎮める社会教化運動の大本山として、母なる心、すなわち慈母の精神を顕現していくために慈母観音を創建したい」と言っておられたのです。
私は、橋本先生がお亡くなりになられた後、慈母観音奉賛会長を仰せつかっております。今後、慈母観音の歴史が100年、200年と営々と刻まれていくことができますように微力ながら奉賛会員の皆様とともに精進してまいることをお誓いしたところであります。
合掌
衆議院議員
奉賛会長 額賀 福志郎